名もなき羊たちの沈黙

Escape from anywhere

昔、見た映画のはなし

昔、見た映画の感想を、誰に公開するでもなくテキストファイルに書き起こしていたことがあった。

せっかくなので、その1つをブログに公開してみる。2020年の2月に書いた文章だ。

 

映画のタイトルは、『女は2度決断する』 (2017年。 監督:ファティ・アキン)。

見たことがなければ、ぜひ見てほしい。

 

今朝のニュース番組で、アウシュビッツに関する特集を見た。

なんでも今年はアウシュビッツ解放から75年目だそうで、各国首脳や元収容者を招いて式典が行われていたらしい。2年前にアウシュビッツを見学する機会があって以来、ドイツやポーランドの歴史が話題になるとどうも気になってしまう。私は、報道を聞くためソファーに座りなおした。

映像には、元収容者だという男性のスピーチが映し出されている。会場には多くの人が詰めかけているが、高齢者が多い。なんせ、75年前の出来事である。元収容者の人々は、当時赤ん坊であったとしても75歳だ。報道によると、先ほどスピーチをしていた男性は90代らしい。日本でも、毎年8月になるとこれとよく似た光景をテレビで目にする。それもあって、どうもこの話題は他国のこととは思えない。

ニュース番組は式典の様子を一通り報じたあと、以下のように話をつづけた。

「しかし、75年が経過した今、アウシュビッツの歴史が風化しつつあるのです。」

その言葉で、映像はドイツの極右政党のものに切り替わる。

ホロコーストのような歴史をこれ以上語り継ぐ必要はない。」

発言の細部は覚えていないが、このようなことを主張していた。この言葉を聞いて、先ほどのスピーチの内容が腑に落ちた。彼はこう言っていたのだ。

ホロコーストを起こしたのは、人々の無関心だ。政治の歴史解釈に無関心ではいけない。」

 

私がアウシュビッツを訪れた際、ドイツの歴史認識についても説明を受けた。

ドイツでは、アウシュビッツで起きた忌むべき歴史を自国のものとして後世に伝え、二度とこのようなことが起きないよう教訓としている。その証拠に、多くの学校が社会科見学でアウシュビッツにくるのだ、と。

だが、そうした教育の努力があっても、現にいまドイツで支持を伸ばしているのは件の極右政党である。これは、恐ろしいことだ。

移民の流入と、経済的苦境。いろいろな苦しみがないまぜになって、その責任が社会的弱者に転嫁されている。

 

この報道をみて、無性にドイツに関する映画を見たくなった。そこで目に留まったのが、ファティ・アキン監督の『女は2度決断する』だった。

 

映画は、あるドイツ人女性とトルコ人男性の結婚式から始まる。といっても、場所は協会ではない。男性は服役中のため、なんと刑務所の中だ。

指輪の代わりに彫ったリング状のタトゥーがアップになり、二人は手をつなぐ。次にカメラが引いた時には、手をつないでいるのは女性と子供。時が経ち、二人は子供を授かったのだ。夫の仕事場に着き、彼女は子供を父親に預けて出かける。

「夜には迎えに来るわ。」

だが、その約束は果たされることはなかった。日も落ちたころ、戻った彼女を待っていたのは爆発したビル。父親と子供の姿は跡形もなかった。

警察の前でむせび泣く彼女の声。家族を一度に失い、親からは、孫を死なせた責任を問われる。精神が正常ではいられない。ドラッグに依存し、最後には自らの手首を切ってしまう。死の寸前で聞いたのは、親しい弁護士の声。

「容疑者が捕まった。これを聞いたら電話をくれ!」

おそらく彼女は、この時一度目の決断をした。絶対に有罪を勝ち取り、罪を償わせる。

 

ここから、法廷での戦いが始まる。犯人は、どうやらネオナチ。人種差別に基づく犯行のようだった。しかし、必死の戦いにも関わらず、裁判は証拠不十分で無罪となる。どうやら容疑者は、ギリシャの極右コミュニティと結託して自らに有利な証拠を捏造しているよう。

 

彼女は諦めず、単身ギリシャへと向かう。

ここで私は、彼女は裁判でもう一度戦うためにギリシャへ来たのだと思っていた。だが、これはそういう物語ではないと、途中で気付いた。

なぜなら、彼女は夫と子供を奪ったのとまさに同じ爆弾を、自らの手で作り始めたからだ。そうなれば、彼女のしようとしていることには予想がつく、無罪となった容疑者のもとへ行き、その爆弾を置き去って起爆するのだろう。法廷で復讐は果たせないと悟ったのか。

そして実際、予想通りの展開となった。しかし、予想に反して彼女は起爆スイッチを押さなかった。容疑者が生活しているキャンピングカーにとまった鳥を見て、踏みとどまったのだろうか。

正直、私は安堵していた。だって、家族を殺された報復の爆弾で終わる物語なんて、あまりに悲しすぎる。きっと、彼女は前を向いて生きていくことにしたのだ。

私はそう思った。もちろん根拠もある。

家族を失って以来止まっていた生理がふたたび始まり、彼女の体は「回復」に向かっていた。その夜、彼女はスマートフォンで動画を見ていた。家族でビーチに行った時の映像だ。父子が海辺に向かっていき、母はパラソルの下にいる。

「ママ、早く来てよ!」「後で行くわ。」

まだあなたたちのもとには行けない。私はこの世界に取り残されてしまったけれど、まだ生きている。物語が前向きな表情を見せた気がした。

 

だが、これは私の妄想。勘違いだったみたいだ。

彼女は、自らの回復を受け入れられなかった。場面はふたたびキャンピングカーに戻り、彼女は自らの体に爆弾を抱えている。自分ごと爆発するつもりだ。

なんて結末だ!そう思った瞬間、爆発。しばらくして、エンディング曲が流れてきた。優しい曲に、不思議と嫌な感情は抱かなかった。

 

彼女の2度目の決断は、もう行われてしまったのだ。

 

この物語では、序盤に訪れた喪失への回復が最後まで果たされない。

にもかかわらず、最後まで見終わったときに悲愴的な気分にならないのはなぜだろう。

 

もしかして、最後の自爆で彼女の回復は果たされたのだろうか。

それほどまでに、彼女の家族への愛が強かったのだとしたら。

 

そうした人間的な感情がこの映画の芯にあるからこそ、悲劇ばかり起こるこの映画でも、エンディングで曲が流れた瞬間、人生を祝福されたような、温かい気持ちになったのかもしれない。

 

 

冒頭に、アウシュビッツとドイツの極右政党の話題を書いたが、何だか最近日本で似たようなニュースを聞いた気がする。

せっかく思い出したので、ニュースのリンクだけでも貼っておこうか。

小池知事、5年連続で追悼文送らず「東京オリパラ開催地の首長としてふさわしいのか」朝鮮人虐殺追悼式典:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)

 

歴史は、放っておくと風化していくものだ。

歴史的事実が歴史認識の問題にすり替えられ、徐々に人々の間から正しい認識が失われていく。

それを防ぐために、追悼式などのイベントがあると思うのだが。